狛犬史における重要な狛犬たち





狛犬のルーツはスフィンクスあたりまで遡れて、日本には宮中に中国獅子として入ってきたものが平安時代後期くらいに日本独自の「獅子・狛犬」という左右アシンメトリーな規格になったのが始まり……という概論は「100万人の狛犬講座」で述べました。
しかし、今私たちがよく目にする石造りの狛犬は、宮中や有名社寺で始まった獅子・狛犬の純粋な子孫とは言いきれません。
別の系譜があった、というのが私の考えです。
狛犬の系譜を大きく分けると、

1)平安時代後期に始まった公家狛犬(木像の獅子・狛犬。神殿狛犬、陣内狛犬などとも呼ばれる)
2)越前で生まれて、後に北前船で全国に運ばれる商品として成功する越前禿型
3)「こまいぬ」というものがあるという伝聞から民間で生まれた素朴な民間狛犬田舎狛犬村狛犬(通称「はじめ狛犬」)
4)戦国時代の武将らが領地の神社に奉納した石造狛犬や、江戸時代になって徳川家光が江戸城二の丸東照社に設置させた石像狛犬あたりから進化していく武家狛犬
5)庄屋や豪農など、地域の有力者が施主となって地元の神社に奉納し始めた旦那狛犬(本格的民間狛犬)

といったものになると考えます。
そして、これらが混ざり合い、特に5)からさらにさまざまな「タイプ」が生まれて、地域ごとに進化していった……というのが私が現在大まかに摑んでいる「狛犬史」です。

この概要に沿って、狛犬史上、重要なポジションにいると思われる狛犬を年代順にいくつか紹介していきます。
 

教王護国寺(東寺)の木彫狛犬(9世紀前半)

教王護国寺の狛犬
(京都国立博物館「獅子・狛犬」1995 より)

宮中に定着した「獅子・狛犬」形式の木像としては最も古い時代と推定される逸品です。日本における狛犬文化はこうしたものから始まったのか、と実感できる存在として大変貴重。この時代の木像狛犬の多くは国の重要文化財指定を受けています。
私はこれは「公家狛犬」という分類にして、江戸時代あたりからの石造狛犬とは別物だと考えたほうがいいと思っています。

東大寺南大門の石獅子(1196年)

  東大寺南大門の石獅子

建久7(1196)年建立という記録があり、「日本最古の石造り狛犬」とされてきたものですが、宋(当時の中国)の石工4人が中国から輸入した石で彫った中国獅子であり、正確には「狛犬」とは言えません。
「日本最古の~」という触れ込みから、コピーが相当作られました。護国系狛犬のモデルのひとつにもなっています。
中国獅子というと、現在では寺院や中華料理店の店先などでよく見られる北獅、南獅のタイプを思い浮かべますが、これはそれらとは趣を異にした「宋風」の造形で、前脚をまっすぐに踏ん張った姿口が直線的に描かれている点は、肥前狛犬や沖縄の石獅子、一部のはじめ狛犬などに通じるところがあります。その意味では「民間狛犬」を生みだした一つの祖といえるかもしれません。
公家文化の中で生まれた屋内型の木造狛犬は庶民の目に触れることはありませんでしたが、この宋風の中国獅子は東大寺を参拝した人たちの目に触れたでしょうから、庶民が初めて目にした「こまいぬ」だったと思われます。
 

大宝神社の木彫狛犬(12世紀末)

大宝神社の狛犬
(京都国立博物館「獅子・狛犬」1995 より)

大宝神社は「たいほう」ではなく「だいほう」と読みます。
獅子・狛犬ではなく、獅子・獅子(どちらにも角がない)というタイプで、古い木造狛犬の中では異色の存在です。
国指定重要文化財(明治33年指定)で、制作年代は鎌倉時代とされていますが、台座裏の「伊布岐里惣中」という墨書きや、洗練された精悍なデザインから、私は室町時代後期くらいではないかと思っています。
「惣」というのは、中世後期から出てきた村の自治組織で、荘園時代からの領主に対して村民が談判したり、村の結束を固めるために作った寄り合い組織のことです。当然、構成員は公家でも武家でもない一般民衆(農民)が中心ですが、戦国時代直前には、惣の主導者階層は武家社会に接近し、次第に武士化していきました。戦国時代に各地で力を持った「僧兵」などとも関係があったと思われます。
「伊布岐里」は修験道の聖地でもあった伊吹山の宿坊集落として発展した村のことだと思われます。
室町時代後期あたりから琵琶湖畔の東部一帯には「伊吹修験道」の修験者や修行僧、参拝者などが集まる「伊吹百坊」とよばれる惣坊群ができて賑わっていました。円空仏で有名な円空も一時期ここで修行しています。伊吹修験は紀州の熊野参詣ブームにも結びついていて、熊野参拝の先達なども出入りしていたようです。
そうした時代背景からして、山岳修験との関係が深い村にできた村民の自治組織が、自分たちの地位を確認する意図で、このような立派な木彫狛犬を有名神社に奉納したのかもしれない、などという想像もできます。

獅子・獅子の組み合わせであることや、胸に鈴をつけているところなどから、「獅子・狛犬の形式成立以前の中国獅子に先祖返りした」という説明がされていますが、奉納者が伊吹村の前身である山里の「惣」(村民の寄り合い結社的な組織)であったとすれば、宮中文化より前の中国獅子に意識的に戻したデザインをわざわざ発注するだろうか、そもそも公家や武家でない村民にそんな知識があったのだろうかという疑問がわきます。
もしかすると僧兵などとの結びつきから、仏教美術的な要素が強く表れているのか、などとも考えるのですが、いずれにしても、これを彫った作者の力量は傑出しています。
いつの時代の誰がどういう経緯でこれを彫ることになったのか……謎だらけの狛犬です。

この狛犬は「かっこいい」ということで後に大変な人気になり、コピーがたくさん出現します。日光東照宮陽明門の狛犬(獅子像。大正5(1916)年に日光社寺共同事務所により発願され、追加された)もこれを模していますし、明治神宮内陣にもコピーが置かれていました。昭和時代に入ってからも、護国神社などに多く建立された「岡崎古代型」のモデルにもなっています。
惣という村民組織が奉納した狛犬という意味では「民間狛犬」に分類してもよさそうなものですが、その後、武家社会や明治以降の軍人中心の権力機構に極めて強く影響していった点からは、はじめ狛犬的な素朴な民間狛犬とは完全に精神性が違うものだととらえることができるでしょう。

高森神社の石獅子(1355年)

高森神社の狛犬(京丹後市丹後郷土資料館寄託 撮影:阿由葉郁夫)

年代がはっきり刻まれている石の狛犬としては最も古いものと考えられています。
背中に「文和四年乙未五月七日」と刻まれていて、文和4年(1355)は南北朝時代の北朝の年号です。
大きさは30センチにも満たない小さなもので、木造の公家狛犬を石で彫ったという雰囲気のものですが、有名な(この)神社の狛犬とよく似ており、籠神社の狛犬のモデルになったのかもしれない石の獅子像が14世紀半ばに存在していたことを示す重要な作品です。

三珠町熊野神社のはじめ狛犬(1405年)


山梨県三珠熊野神社にある応永12(1405)年の日付が腹部に刻まれているはじめタイプ狛犬は、狛犬史上最もミステリアスな存在と言えるかもしれません。
この狛犬は平安時代に始まる公家狛犬(獅子・狛犬)とも、中国獅子とも、高森神社の石獅子とも違っています。四つん這いになっており、いわゆる「はじめタイプ」狛犬のルーツとも呼べるものなので、おそらく畿内の名のある寺社とは関係なく、庶民が「こまいぬというものを奉納してみたい」と思って彫った結果こうなったのでしょう。
そうした「民間狛犬」(庶民文化としての狛犬)のルーツが江戸時代に入る200年以上前、15世紀初めにあったのであれば、実に驚くべきことです。はじめ狛犬の多くは年号が刻まれていないのですが、刻まれているものとしてはこれだけが突出して古いのです。
尾や鬣には越前禿型のような造形も見られます。しかし、越前禿型のルーツといえそうな日吉神社の狛犬(↓)は1577年ですから、それより170年以上前に作られたこの狛犬が越前禿型の真似をしたわけではありません。その逆の可能性すらあります。
江戸時代に入って庶民の間に石の狛犬奉納ブームが起きてからも、はじめタイプは日本各地で作られています。ですから、はじめタイプの狛犬は木造の屋内型狛犬(公家狛犬)を見たことのない村石工や庶民が作り始めた「別系統」の流れだと私は思っているのですが、今のところそのルーツに限りなく近い存在がこの狛犬です。
それが山梨にある、というところが極めて重要で、狛犬史を考える上でしっかり頭に入れておきましょう。

あわら市春日神社の狛犬(1515年)と日吉神社の狛犬(1577年)


越前(福井県)では笏谷(しゃくだに)石という細工しやすい石が産出され、この笏谷石を使った比較的小型の神殿狛犬が大量に作られた時期がありました。前にカールしたおかっぱ頭と紐状の尾が特徴です。私は「越前禿(かむろ)型」と呼んでいます。1500年代に誕生し、1600年代以降にかなりの数が作られて、北前船に乗って全国に売られていきました。
量産される前の時期に笏谷石で作られた狛犬の中で年号が判明している最古のものは、あわら市の春日神社にある永正12(1515)年のもので、年号と共に「伏野菊千代丸」という奉納者名も残っています。武士の幼名だとすれば、親が子の健康や開運を願って奉納したのかもしれません。当時の武士がそうした精神性、文化を持っていたとなると、公家狛犬とは違う制作・奉納の意図があったということになるでしょう。
この地方では戦国大名の朝倉氏が笏谷石を使った産業振興に力を入れたとも言われており、そこから生まれた石造狛犬が「武家狛犬」として、その後の参道石造狛犬につながっていったと考えられます。

福井県あわら市春日神社の狛犬 (撮影:阿由葉郁夫)

岐阜県神戸(ごうど)町の日吉神社と下宮日吉神社にある天正5(1577)年の二対も有名です。この一対は国の重要文化財、下宮のものも県の重要文化財指定を受けています。
これはかなり大きくて(全高約70cm)、造形も立派なので、後に出てくる越前狛犬とは少し趣を異にしています。石も、神社の説明では笏谷石とのことですが、私自身は確認できていません。現在置かれているものはレプリカだそうで、写真で見る限り、このレプリカは笏谷石ではないようです。
前脚に「天正五丁丑秊(1577年)五月吉日」「不破河内守光治造立」と彫られています。

日吉神社の狛犬(撮影:秋本充)
不思議なのは、国の重要文化財になっている日吉神社(神戸日吉神社)の方が少しだけ大きく、阿吽ではなく、吽阿(向かって左側が吽像)の配置になっていることです。こういう場合、建立時には阿吽になっていたものが、後に何かの拍子に入れ替わって置かれているケースも多いのですが、銘の刻みかたが、神戸日吉神社(国重要文化財)のほうは吽像の左前脚外側に「天正五丁丑秊五月吉日」と日付が、阿像の右前脚外側に「不破河内守光治造立」と寄進者の名前が刻まれていて、下宮のほうはその逆に、阿像の左前脚外側に「天正五丁丑秊一」、吽像の右前脚外側に「不破河内守光治造立」と彫られています。まったく同時期に2対作られたのであれば、なぜ逆なのか……不思議です。

寄進者の不破光治は美濃国(岐阜県南部)の斎藤氏に仕えた戦国武将で、斎藤氏が滅んだ後は織田信長に仕え、信長の妹・お市と浅井長政との婚約をまとめたとも伝えられている人物です。
天正5(1577)年は光治が柴田勝家を総大将とした加賀の一向一揆鎮圧や織田信長の命で雑賀侵攻にも加わるなど、各地の戦場で戦いを続けている真っ最中でした。そんな時期にこのような狛犬を奉納していたことは、実に興味深いことです。この狛犬奉納には「武運」を願う気持ちが込められていたであろうと想像できるからです。
ともあれ、これらの狛犬は、武将が狛犬というものを奉納したごく初期のもので、「武家狛犬」の祖に近いでしょう。
ちなみに、同じ神戸町の白鳥神社には「天正六年四月吉日」と刻まれた小型(約25cm)の禿型狛犬も残されています。
さらに、愛知県の津島神社には前足の部分に「天正十六年(1588)戊子七月吉日」、胴部に「橋本宗兵衛寄進也」の銘がある狛犬があり、後の越前禿型狛犬よりはずんぐりとした作風ですが、これも笏谷石のようです。寄進者は福島正則家中の武士のようで、この頃から武家社会に狛犬奉納のブームが起き始めていたようです。そうした動きが、岐阜・愛知エリアから始まっていたらしいということも大変興味深い点です。

これら天正年間に武家社会で奉納され始めた笏谷石の狛犬が越前禿型のルーツだとすれば、1600年代以降に量産された越前禿型は、数を作るために工程を徐々に簡略化した結果、あの独特の風貌が際立っていったのかもしれません。
岐阜県内に今でもはじめ狛犬を含む素朴な形の狛犬が多数残されているのは、武家狛犬発祥の地だからかもしれません。越前狛犬を購入できなかった庶民が、自分たちも狛犬を奉納したいと思うようになったのでしょうか。
 

(この)神社の狛犬


(撮影:門野外喜雄)

これは一時期、鎌倉時代の作という説があって「国産の石造り狛犬としては最古」と言われていましたが、年号が刻まれているわけではなく、今では多くの研究者が疑義を呈しています。
数々のユニークな狛犬研究をしているliondogこと片岡元雄さんは、雪舟の「天橋立図」や「成相寺参詣曼荼羅」などの絵には狛犬が描かれていないので、建立はそれより後だろうという説を唱えていますが、私も同意見です。
前出の高森神社の小さな石獅子像、あるいはそれに類する作品を模して、巨大にして神社に奉納したと考えるほうが自然でしょう。
「天橋立図」(国宝)は、明応10年(1501)から永正3年(1506)の間に描かれたとされていますから、その頃にまだこの狛犬が存在していなかったのであれば、奉納時期は1500年代半ばから1600年代はじめくらい、つまり安土桃山か江戸初期くらいではないでしょうか。
しかし、大きさといい、どっしりとした風格といい、素晴らしい狛犬であることは間違いありません。これのコピーは多数存在します。それだけ影響力の大きかった狛犬なのです。

江戸城二の丸東照社の狛犬(1637年)


この狛犬は、建立年が分かっている石造狛犬としてはおそらく「東日本最古」です。

越前禿型狛犬で古いものは岡崎市の犬頭神社に慶長10(1605)年というものがあります。岐阜県の日吉神社にある国重要文化財指定の狛犬は天正5(1577)年とされています。越前禿型狛犬は北前船で東北方面にも運ばれていますから、1637年より古い石造狛犬が東日本に存在しているであろうことは十分に考えられます。「はじめ狛犬」も入れれば、東日本にもほぼ確実に1640年以前の石造り狛犬は存在していると思いますが、奉納年が明確に分かっているもので1637年より古いものは今のところ私は知りません。

この狛犬は、現在は川越市の仙波東照宮拝殿前に置かれていますが、元々は江戸城内にありました。
元和4(1618)年、徳川二代将軍・秀忠により、江戸城の構内にある紅葉山に家康を祀る東照社を建て、元和8(1622)年には天主台の下にも本丸東照社を建てました。その後、家光により日光東照宮の大造替に合わせて寛永12(1635)年に本丸東照社は廃されて浅草寺に遷され、代わりに二の丸東照社が作られ、寛永14(1637)年に本格造営が完成します。
それに合わせて、二の丸東照社には石造狛犬一対が置かれました。
正保2(1645)年、東照社に宮号が宣下され、「東照宮」に。承応3(1654)年、二の丸東照宮は修造された紅葉山東照宮に合祀され、旧社殿は川越に移築。残された狛犬も、手水鉢と一緒に、明暦2(1656)年に江戸城から川越の仙波東照宮に移されました。
江戸城内から仙波東照宮に移されたことで、この狛犬は多くの人たちの目に触れるようになったと思われます。今も仙波東照宮が開門される日曜祭日には地元のガイドさんの案内付きで間近に見ることができます。破損もなく、極めてきれいな状態です。

ちなみに家康の遺骸が最初に葬られた久能山東照宮にもこれに似た狛犬がいますが、破損がひどく、ひっそりと隠居生活を送っています。
久能山東照宮の狛犬は正保4(1647)年、家康の命日の4月17日に、林丹波守勝正が奉納したもので、破損がひどいため、享和3(1803)年と天保4(1833)年に作り直されており、天保4(1833)年のリメイク狛犬のうち1体がきれいな状態で残っていますが、初代とはだいぶ趣が変わっているようです。

都内最古の狛犬といわれる目黒不動尊の狛犬も、この江戸城二の丸東照社狛犬に雰囲気がかなり似ています。
目黒不動尊の狛犬は石工組合の組頭が奉納したものらしいので、江戸の商家や有力者たちがこぞって石造狛犬を神社に奉納する先駈けとなった存在でしょう。
公家でも武家でもない階層の一般人が奉納する「民間狛犬」とでも呼べるものは、村石工が彫った素朴な「はじめ狛犬」と有力者がそれなりの石屋に発注して作らせた「旦那狛犬」に大別されると思っていますが、家光が江戸城二の丸東照社に置いた狛犬は、江戸の名のある石工を通じて「旦那狛犬」にも影響を与えたと考えられます。その意味では、この「江戸城の狛犬」は極めて重要な位置を占める狛犬です。

日光東照宮奥の院の狛犬(1641年前後)



東照宮奥の院参道の狛犬は、「東日本最古の石造り狛犬」と言われていますが、実際には江戸城二の丸東照社の狛犬のほうが数年古いので、東日本最古ではありません。
徳川家光が東照宮を今のような派手なスタイルで大造営したのは1636年ですが、そのときの奥社宝塔はまだ木造でした。石造りの宝塔と唐門に改められたのは寛永18(1641)年のことで、それらの造営に多大な貢献をしたという功績を認められて、二人の忠臣、松平正綱と秋元泰朝が狛犬奉納を「許された」と記録されていますから、この狛犬が建立されたのは早くても1941年ということになる、というのが狛犬研究家・山田敏春さんの見解です。
私もその説はほぼ間違いないと思っています。さらには、この狛犬はもともとは石造りの奥宮唐門前に設置されていたであろうことも推定できます。

東照宮奥の院の狛犬は江戸城二の丸東照社の狛犬をさらに威風堂々とリファインさせたような造形ですが、コピーではなく、オリジナリティを感じさせます。しかし、家康の墓所を守るためのもので、一般庶民はもとより、将軍家以外の大名でさえ目にすることができませんでしたから、その後の狛犬史においてもコピーがほとんど出現しませんでした。その点で、西日本で一時期「石造り最古の国産狛犬」とされて多くのコピーが生まれた籠神社の狛犬とはずいぶん違う運命です。
出来が素晴らしかったのに真似されることがなかった孤高の狛犬として、狛犬史に残る名品です。

寄進者は松平正綱と秋元泰朝ですが、松平正綱は長沢松平家分家の松平正次の養子。長沢城は愛知県。秋元泰朝は甲斐国東部の郡内地方を治める谷村藩で山梨県。奥の院の狛犬を彫った石工が誰かは分かりませんが、中部エリア出身かもしれません。
越前禿型のルーツが岐阜で、はじめ狛犬のルーツかもしれない三珠熊野神社は山梨、奥の院の狛犬を寄進した二人の武将は愛知、山梨が拠点。さらには、初期の越前狛犬を神社に奉納した不破光治ら戦国武将武将たちも岐阜周辺を拠点としていたわけで、岐阜、愛知、山梨といったエリアは、狛犬文化が庶民に伝播する上で重要な場所になっていたようです。
余談ですが、狛犬研究では有名な故・上杉千郷氏も岐阜県の出身で、郷里に狛犬博物館を建てました。

目黒不動尊の狛犬(1654年)

目黒不動の狛犬

東京都内で最も古いとされている石造りの狛犬がこれです。
蹲踞まではいかないですが、いわゆるはじめタイプよりははるかに立派な造形です。
ほとんどの石工は公家狛犬を見たことがないので真似できなかったはずですが、しかし、村石工がとぼしい伝聞情報と未熟な技術で作ったはじめタイプとは違って、狛犬というものに対するある程度の知識やお手本があった江戸の石工たちが作りだした「民間狛犬」という位置づけができるかもしれません。
胸にベルト状のものが認められ、南大門タイプの宋風中国獅子の影響も受けているのかもしれません。いろいろな情報が少しずつ入ってきて、江戸の腕のある石工たちが懸命に立派なものを作ろうとした様子がうかがえます。結果として、公家文化から生まれた木造狛犬の完全コピーではない、独自の形状に仕上がったところが評価できます。

360年以上の時を経ても崩れていないしっかりした造りといい、どっしりした造形の独創性といい、江戸石工のレベルの高さが分かる逸品で、さすがは江戸だなあ、と感心させられます。

鶴岡八幡宮の狛犬(1668年)


(撮影:小林繁男)

鎌倉鶴岡八幡宮には、寛文8年(1668年)に奉納された狛犬がいます。
四代将軍徳川家綱の命により、鎌倉鶴岡八幡宮の修造が寛文5~8(1665~1668)年にかけて行われ、その際に家来筋に奉納させたものと思われます。
目黒不動尊の狛犬より少しだけ後の建立ですが、これは完全に蹲踞スタイルで、なんとなく見過ごせば「普通の狛犬」だと思ってしまうでしょうが、四つん這いのはじめタイプと後の蹲踞型の参道狛犬との間くらいに位置する造形と言えます。
よく見ると、越前禿型の特徴が少し見られたりもしますが、尾は団扇型で完全に越前型とは違います。
東照宮3社に奉納された狛犬同様、オリジナリティの高い「武家狛犬」といえます。
 

小野照崎神社の狛犬(1764年)

小野照先神社の狛犬

江戸獅子タイプの狛犬の特徴は流れるような鬣と尾ですが、最初からそうだったわけではありません。
初期の頃は尾が立っていましたし、鬣も流麗さはありませんでした。
それが次第に美しさを追求するようになり、畿内とはまったく違う江戸タイプができあがっていくのですが、その先駈けとも言えるのが小野照崎神社の狛犬です。この狛犬あたりから、尾が横に流れるようになったようです。
もうひとつ、江戸時代には宝珠型というタイプも流行りました。狛犬に角があるのに獅子には何もないのは寂しいと思ったのでしょうか、獅子の頭に宝珠をのせた狛犬が登場します。これもまた、小野照崎神社の狛犬に見られる特徴です。
ところが、これにはさらにエピソードがあります。
狛犬は元々、向かって右が角なしの獅子で阿像(口をあけている)、左側が角ありの狛犬で吽像(口を閉じている)という別々の生きものなので、宝珠をつけるなら角のない阿像につけるべき(?)であり、実際、宝珠狛犬が登場したときはそうだったのですが、どういうわけか、その後、1794年に出版された職人たちのイラスト見本帳とも言える『諸職画鑑(しょしょくえかがみ)』に、角と宝珠を逆にした絵が掲載されます。その結果、阿像が角、吽像が宝珠という「間違った(?)」狛犬がいくつも造られてしまいました。
その角と宝珠を逆にした「間違い実例」の一つが筑土(つくど)神社の狛犬(1780年)で、『諸職画鑑』の狛犬図を描いた作者は筑土神社の狛犬を見て間違えたのかもしれません。
というわけで、初期の宝珠狛犬(阿像に宝珠、吽像に角)⇒小野照崎神社の狛犬(宝珠狛犬の尾をたなびかせて背中にくっつけた)⇒筑土神社の狛犬(角と宝珠の位置を間違えた)⇒諸職画鑑(間違いを広めるきっかけを作ってしまった)⇒それがそのまま北関東~東北へと伝わってしまった……という興味深い流れが読み取れます。
まあ、狛犬は自由度の高さが魅力なので、吽像に宝珠が「間違い」だと決めつけるのも狭量なのでしょうが……。

筑土神社の狛犬吽像には宝珠がのっている(1780年)


『諸職画鑑』(1794年)はその「間違い」を広める元になった


このように、狛犬の歴史にはまだまだ謎が多いのです。謎を解明していくためのヒントになりそうな重要な狛犬をいくつか紹介してみました。
これからも狛犬史を変えるような発見があるかもしれません。
狛犬趣味は本当に奥が深く、飽きることがありませんね。

◆併せて狛犬の精神史のコーナーもぜひご覧ください。
(2015/10/03 記 たくき よしみつ 2022/03/04 updated)

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