狛犬の精神史(1)

鉄道マニアが、撮り鉄、乗り鉄、知識鉄など、いろいろなタイプに分かれるように、狛犬ファンも楽しみ方はいろいろです。
出雲型、江戸獅子などの形状による分類を極めようとする人、特定の地域の狛犬を徹底的にデータ化しようとする人、はじめ狛犬や変な形の狛犬などを愛する人など、様々です。
もちろん、狛犬の楽しみ方は自由なのですが、見落とされがちなのは「狛犬が生まれた社会的、精神的背景」という視点です。
私は狛犬歴30年を過ぎたあたりから、徐々にこの視点による狛犬史を考えるようになりました。
狛犬という「制作物」は長く残りますが、それを生みだした人々がどんな意図で奉納しようとしたのか、あるいは彫り上げた石工の気持ちはどういうものだったかといったことは、記録にはほとんど残りません。
地震や津波が起きた、戦争があって何人死んだ、飢饉が訪れたといった記録はある程度残りますが、人々がそのときにどんな気持ちでいたのか──社会の空気感や価値観、精神性といったものを感じ取るのは極めて困難です。手に入るわずかな資料をもとに、想像するしかありません。
その「文字としては記録されづらい時代の空気感」といったものを、狛犬は教えてくれているのではないか……そんなことを考えるようになりました。

以下の論考は想像部分が大半ですが、それでも「狛犬の精神史」といった視点で狛犬史を見ていく試みは無意味ではないでしょう。日本の狛犬文化の特異性を考える上でも、重要な視点だと思うからです。

平安時代:「公家狛犬」の誕生

日本における狛犬文化がどのように誕生したのかについては、すでに多くの人たちが研究をまとめ、発表しています。
「狛犬とは何か? 100万人の狛犬講座」でも解説していますので、ここでは簡単に触れるだけにします。
インドガンダーラで生まれた仏教美術の中で、仏像の台座にライオンを刻る「獅子座」思想が定着し、それが中国に渡って「唐獅子」という空想上の生き物とも合流。どちらも日本に渡ってきて、平安時代頃に左右に違う霊獣を配した「獅子・狛犬」という形式が生まれた……というのが、現在考えられる最も無理のない解釈でしょう。

貴族お抱えの仏師が仏像などと同様に木彫で作り、屋内に置かれたこれらの狛犬は、神殿狛犬、陣内狛犬などと呼ばれていますが、狛犬が生まれた社会、文化背景という視点からは「公家狛犬」と呼びたいと思います。
公家狛犬は貴族の文化から生まれたものであり、素朴な信仰心というよりは、自分たちの教養や地位を示すものです。同時代の仏像彫刻と同類ですが、仏像よりは遊び心や趣味性がずっと高い「嗜好品」的な工芸といえるでしょうか。
京都御所清涼殿にある獅子・狛犬

公家狛犬は貴族社会から外に出ていくことはなかったので、一般庶民はその存在を知りませんでした。
今私たちが普段目にしている石の狛犬は、江戸時代に入ってから奉納ブームが起きて急速に全国に広まったもので、平安~鎌倉時代の公家狛犬とは基本的には別物だと考えたほうがいいでしょう。

鎌倉~室町時代:「武家狛犬」の出現

公家狛犬は基本が木彫で、左側(向かって右)が口を開いた角なしの獅子、右(向かって左)が口を閉じた角ありの狛犬という別々の霊獣で構成されています。
しかし、有名な滋賀県栗東市大宝(だいほう)神社の木彫狛犬は、このスタイルを壊し、両方とも角のない獅子の組み合わせです。
姿も筋肉質でスマート。それまでのどこかのんびりと高貴な雰囲気の公家狛犬とはだいぶ違い、戦闘的なイメージです。
大宝神社の狛犬。阿吽のスタイルは踏襲しているが、吽像に角がない
国重要文化財(京都国立博物館「獅子・狛犬」より)

この狛犬は鎌倉時代の作と推定され、国の重要文化財に指定されていますが、鎌倉時代というのは本当でしょうか?
台座の裏には「伊布岐里惣中」という墨書きがあるそうです。
「伊布岐里」は伊吹山麓にあった村のことでしょう。そこの「惣」が奉納したという意味です。
「惣」は、中世後期から出てきた村の自治組織で、荘園時代からの領主に対して村民が談判したり、村の結束を固めるために作った寄り合い組織です。
つまり、この狛犬は、公家や大名ではなく、村民が奉納したと考えられます。
これは狛犬史にとって極めて重要なことです。それまで貴族社会にしか存在しなかった狛犬を、貴族ではない人々が奉納したということなのですから、一大転換点といえます。
しかし、鎌倉時代の農民に、あれだけ立派でカッコいい狛犬を仏師に発注し、奉納するだけの力があったのでしょうか?

戦国時代直前には、惣の主導者階層は徐々に力をつけて武家社会に接近し、武士化していったといわれています。つまり、惣の人たちは、完全な被支配者層である農民から脱却して武士階級に成り上がりたかった人たちの集団ともいえます。
そういう上昇志向の強い集団が、自分たちはもはやただの農民ではない。武士であるということを証明するために、あの凛々しい狛犬を地元の有名神社に奉納したと考えられます。
となると、時期は鎌倉時代よりかなり後、室町後期くらいなのではないかと私は推理しているのですが、正確な時期はともかく、この狛犬は公家狛犬と武家狛犬をつなぐ極めて重要な存在だと思います。
それにしても、慶派の仏師顔負けの完成度の高い狛犬を彫った彫刻師は何者でしょう。謎の多い狛犬です。

なお、この大宝神社狛犬は、明治時代に入ってからまた重要な役割を果たすことになりますが、その話はまた後ほど改めて。

東大寺南大門の石獅子は武家狛犬の祖か?

東大寺南大門(仁王像の裏側)にある石獅子は建久7(1196)年建立という記録があり、制作年が分かっている日本最古の石造狛犬とされています。
東大寺南大門の宋風石獅子 建久7(1196)年

しかし、これは宋(当時の中国)の石工4人が中国から輸入した石で彫った中国獅子であり、正確には「狛犬」とは言えません。
そこに至るまでのいきさつを詳しく見ていくと、以下のようになります。


……こう見ていくと、東大寺南大門の石獅子は頼朝らの援助があって生まれたものであり、ある意味「武家狛犬」の祖といえるのかもしれません。
また、伊行末率いる「伊派」と呼ばれる宋の石工集団は、その後、「伊」「猪」「井」を冠する苗字を名乗って日本各地に散り、石工技術を伝えています。

戦国時代~江戸初期:石造りの武家狛犬が登場

さらに時代が下っていくにつれ、公家狛犬とは別系統の石獅子が登場してきます。
古いものでは京丹後市高森神社の狛犬(現在は丹後郷土資料館寄託)の文和4年(1355)の年号が刻まれている小型の石獅子や、丹後半島の古社で「元伊勢」とも呼ばれる(この)神社の大型の石獅子などが知られていますが、これらの奉納者が武家かどうかはよく分かりません。
高森神社の狛犬(京丹後市丹後郷土資料館寄託 撮影:阿由葉郁夫)

また、山梨県三珠(みたま)熊野神社の応永12(1405)年の年号が刻まれた狛犬は、前脚を伸ばして蹲踞している高森神社や籠神社のものとはまったく違っていて、完全に四つん這いになっています。これはおそらく武家とは関係のないものでしょう。

はっきりと武士が奉納したと分かるものは、福井県あわら市の春日神社にある永正12(1515)年のもので、年号と共に「伏野菊千代丸」という奉納者名が残っています。
武士の親が子(菊千代丸)の健康や開運を願って奉納したのでしょうか。そうであれば、この時代には武家社会にもそうした文化が芽生えていたということで、公家狛犬とは違う精神性を感じさせます。
福井県あわら市春日神社の狛犬 (撮影:阿由葉郁夫)

越前では戦国大名の朝倉氏が笏谷石を使った産業振興に力を入れていて、この春日神社の狛犬も越前の笏谷石で作られています。この狛犬を簡素化したようなデザインの「越前禿型狛犬」が量産され、北前船で全国に商品として売られていくのはこの少し後です。つまり、越前狛犬は「商品化された武家狛犬」という見方もできます。
熊野高照神社
青森県弘前市 熊野高照神社の越前狛犬 寛文4(1664)年

岐阜県神戸(ごうど)町の日吉神社と下宮日吉神社にある天正5(1577)年の二対は、「不破河内守光治造立」と彫られていて、明らかに大名が奉納した「武家狛犬」です。

日吉神社の狛犬(撮影:秋本充)
天正5年といえば、光治は柴田勝家を総大将とした加賀の一向一揆鎮圧や織田信長の命で雑賀侵攻にも加わるなど、各地の戦場で戦いを続けている真っ最中であり、この狛犬奉納には「武運」を願う気持ちが込められていたであろうと想像できます。
つまり、奉納の理由が公家狛犬とはまったく違うと思われるのです。

戦国時代が終わり、徳川による長期安定政権が成立すると、武家社会も安定し、公家文化への憧れを隠さない殿様も出てきます。
その代表は3代将軍家光(1604-1651)で、家光は家康が眠る日光東照社(正保2年(1645)に宮号宣下があり、以後は東照宮)の寛永の大造替(1636年)を行い、豪華絢爛な異空間を作り上げます。
徳川家康は元和2(1616)年4月17日(6月1日)駿府で没し、遺言に従って遺骸は久能山に埋葬された後、一周忌が過ぎた元和3年(1617)3月に日光へ移葬されました。
その直後の元和4(1618)年、徳川二代将軍・秀忠は、江戸城の構内にある紅葉山に家康を祀る東照社を建て、元和8(1622)年には天主台の下にも本丸東照社を建てました。
その後、家光により日光東照社の大造替に合わせて寛永12(1635)年に本丸東照社は廃されて浅草寺に遷され、代わりに二の丸東照社が作られ、寛永14(1637)年に本格造営が完成したのですが、この二の丸東照社には、家光が普請の責任者である根来盛正(1591-1654)に命じて石の狛犬を奉納させています。
その後、寛永18(1641)年、日光東照宮の奥の院に石の唐門が完成した際にも石の狛犬1対が置かれました。
(日光東照宮奥の院の石造狛犬は東日本最古といわれていますが、江戸城二の丸東照社の狛犬のほうが数年古いのです)
家康の遺骸が最初に葬られた久能山東照社にも、宮号宣下があった後の正保4(1647)年、家康の命日の4月17日に、林丹波守勝正が石の狛犬一対を奉納しましたが、その狛犬は破損がひどく、現在はひっそりと隠居生活を送っています。

江戸城二の丸東照社、日光東照社奥の院、久能山東照宮の狛犬は「武家社会」で作られた狛犬ですが、奉納の精神性は、武運を願うというよりは、先祖霊の鎮魂・守護であり、公家狛犬の精神性に戻っていった感があります。
また、どの狛犬も奉納者は家光ではなく、徳川に従う大名たちなので、家光は狛犬を「守護獣なのだから家来が奉納するべきもの」と考え、仏像よりも下に見ていたのかもしれません。それもまた、武家文化的な発想ですね。

江戸城二の丸東照社にあった狛犬(現在は川越の仙波東照宮に移されている)。寛永14(1637)年。「献上 根来出雲守」と彫られていた


日光東照宮奥の院の狛犬。元は石造の唐門(寛永18(1641)年完成)前にあり、その後、現在の銅製鋳抜門に建て替えられた際、狛犬は現在の石段途中に移設されたと思われる。奉納は松平正綱と秋元泰朝

江戸時代:「民間狛犬」が全国に広まる

武家狛犬は数としてはそれほど多く残っていません。しかし、石の武家狛犬が生まれたことにより、一般庶民の目にも触れるようになります。 公家狛犬は貴族社会の中から外に出てこなかったのに対して、石の武家狛犬は庶民も見ることができる屋外に置かれたからです。
日光東照宮奥の院の狛犬は将軍以外は入ることのできない場所にあったため、庶民の目に触れることはありませんでしたが、二の丸東照社の狛犬は川越に移設された後は見ることが可能だったでしょう。日吉神社などの狛犬や、北前船で遠方まで運ばれていった越前狛犬も、庶民が狛犬というものを知ることにつながります。
こうして、それまで狛犬というものをまったく知らなかった一般庶民が、「阿像と吽像が一対となった不思議な霊獣・守護獣の像」に興味を持ち始め、「おらが村の鎮守さまにも奉納してみるか?」となっていったのでしょう。

こうして出現し始めた公家狛犬でも武家狛犬でもない狛犬を、「民間狛犬」と呼ぶことにします。
民間狛犬はさらに、狛犬に対する知識が乏しく、技術や資金も足りなかった村石工が彫った「はじめ狛犬」と、豪農や商家などの富裕層がプロの専業石屋に発注して作らせた「旦那狛犬」に大別されるかと思います。
はじめ狛犬は、本来であれば「村狛犬」「村社狛犬」などと呼ぶほうが適切かと思いますが、すでに「はじめ狛犬」という名称が定着しているので、「はじめ狛犬」という名称をそのまま使うことにします。

民間狛犬で最も古いものは山梨県の三珠熊野神社の狛犬(腹部に応永12(1405)年の刻字あり)でしょうか。
三珠熊野神社のはじめ狛犬
四つん這いの形状からして、東大寺南大門の宋風石獅子とも越前禿型ともまったく違う、極めて特異な存在です。
大公性見 小公藤二良」という刻字もあり、「大公」は「大工」、「小公」はその弟子を意味し、制作者のことだろうと思われます。
職人(庶民)が自ら制作し、奉納したということであれば、これこそ民間狛犬の祖と認定してもよさそうです。
江戸時代に入る200年以上前、15世紀初めにすでに「民間狛犬」が登場していたという、大変貴重な歴史遺物といえます。

しかし、庶民の間に狛犬奉納ブームが訪れるのはやはり江戸時代に入ってからのことです。

目黒不動尊の狛犬は、東京都内で最も古い年号(承応3(1654)年)が確認できる石造狛犬として有名です。
目黒不動の狛犬

この狛犬は江戸市中の石工組合組頭が指揮して奉納したものらしいので、江戸の商家や有力者たちがこぞって石造狛犬を神社に奉納する先駈けとなった存在でしょう。
胸にベルト状のもの(瓔珞(ようらく))が認められるところは中国獅子の影響を感じますし、江戸城二の丸東照社狛犬にも雰囲気がかなり似ています。

名もない村石工が彫ったはじめ狛犬と、富裕層である旦那衆が金を出して作らせた旦那狛犬は同じ時代に並列して生まれています。
形が素朴なはじめ狛犬のほうが古そうだと思う人が多いのですが、そんなことはありません。
江戸周辺では、はじめ狛犬は江戸市中にはほとんど残っておらず、神奈川や八王子などの周辺部に多く見られます。しかしそれらのはじめ狛犬より古い旦那狛犬が市中に複数残っており、時期よりも地域の違いが大きいことが分かります。

はじめ狛犬は、田舎の農民らが、集落の安全などを願って奉納したもので、素朴な信仰心や団結の象徴としてとらえることができます。道端に残る道祖神や地蔵、女人講が作った如意輪観音石仏などに近い精神性とでもいいましょうか。
それに対して旦那狛犬は、立派なものも多いのですが、町の有力者などが自分の地位、名声、成功の証として奉納するという性格も見うけられます。
江戸市中では石工や火消しが奉納しているものもあり、お祭りや派手なことが好きな江戸人の気風も感じられます。

ともあれ、ここにきてようやく私たちが日頃よく接する、そして愛してやまない狛犬文化が誕生したのです。

江戸市中では頭に宝珠をのせたり、玉や子獅子をつけたり、鬣や尾を流麗になびかせる細かな彫りを競ったり、挙げ句は獅子を岩山の上にのせて子獅子を落としてみたりと、実にいろいろな「遊び心」が発揮されて、一気に狛犬文化が花開いていきます。
畿内でも天下の台所・大坂の財力が多くの立派な旦那狛犬を生みます。
それを手本に、地方でも様々な狛犬が作られていき、日本中で一気に狛犬奉納が流行していくわけです。
小野照先神社の狛犬
小野照崎神社の狛犬(1764年)。頭に宝珠をつけ、鬣や尾を流麗になびかせるなど、江戸獅子の自由な創造性が窺える。

旦那狛犬の文化は、明治に入って神仏分離令や廃仏毀釈の影響で20年近く低迷しますが、明治後期から大正、昭和初期にかけて、ルネッサンスの如く蘇り、自由で大胆な発展を遂げます。

しかし、その後、国家神道の下での軍国主義化が進むにつれ、急速に奉納の意図が変質していき、没個性化に陥っていきます。
そのへんの考察は、長くなったので、⇒ 次に 譲り、一旦ここで切りましょう。

(2022/01/21 記 たくき よしみつ)

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